対戦したのは滋賀県の野洲高校と鹿児島県の鹿児島実業高校。鹿実は皆さんご存知のとおり野球も強く、サッカーでも毎回優勝候補に名前が挙がる常連校です。それに対し、野洲高校は出場二回目の学校です。 この2つのチームが出場記録のみならず、とても対照的なチームで、 1人1人の個人技とすばやい連携プレーで華麗なサッカーを見せる野洲高校と、 精神力と体力で育てられてきたような、規律を守った戦術サッカーの鹿実という 印象をうけます。 この対決は、決勝戦が始まる前から楽しみでした。 まるで発想力と個人技で崩されていく南米サッカーと 守備に重点を置いた規律重視のヨーロッパサッカーの対決という構図のようでした。 結局この試合は野洲高校が延長戦の末、1点差で勝ったのですが、 試合結果以上に、野洲のプレーが今までの高校サッカーでは見られなかったすばらしいものだったと思います。試合後は、これからの高校サッカーを変える試合になったと持ち上げられていますが、決してお世辞ではないと感じます。 私は今回の鹿実が決して悪いサッカーはしていないと考えていますし、それであるからこそ決勝戦で力は均衡したと考えています。そして決勝戦までの勝ちあがってきた指導の方法に問題があったとは思いません。ただ、ひとつ大きく違う部分があったと思うのでそこについてお話したいと思います。 これまでの高校サッカーでは、指導者がクラブにおける規約やルールを作り上げ、生徒はその規約に従い、監督の下でサッカーを作りあげてきました。 そのため、生徒はそのガイドラインにちゃんとついていき、ピッチ上で戦術が実現できるようにに筋トレや精神力を磨く訓練に時間を割いてきました。サッカーという競技をしながらも、体力で相手を上回り、相手がついてこられない状況を作り出そうというパワープレーが存在してきたのです。 これらのことがごく普通にこれまでの高校サッカーを支えてきたので、試合を見ていて感じる各校のガイドラインや体力勝負が高校サッカーには必要なものだと多くの人が思っていました。これらには短期で連戦が続く大会の形式からも有利と思われていました。 しかし、今回の野洲のしていたサッカーは全く異質なものでした。 高い位置にからの全体を俯瞰できる位置の視点で見ている私たちでも、次に繰り出す彼らの自由なプレーにはついていけず、度肝を抜かれました。 またそれらのサッカーを選手たちがのびのびと楽しそうにプレーしていて見ている側の心をつかみました。それが、反響の大きさだと思います。 それでは、なぜ出場2回目のチームがそんなプレーをし、優勝できたのでしょか。 しかも野洲は県立高校です。予算も施設も限られてきます。 そんな環境でありながら、あのようなプレーをすることができたのは、やはり指導する側の方針が良かったからだと思います。 この野洲高校の指導者は、サッカーの選手としての活動はないそうです。もともとレスリングの選手で大学4年のときにドイツへ留学し、そこでサッカーをよく見ているうちに興味を持ったのが始まりなのです。 そして、向こうでサッカーをみているうちに、自然と試合を見る目がこえ、 帰国後、日本の高校サッカーを見たときに、サッカーに見えなかったとおっしゃっております。おそらくそれだけ日本ではガイドラインに沿った、型にはまったサッカーをしていたのでしょう。 そこで、今のように組織力でサッカーをしようとしている日本において、 まずは個人の能力を上げなくてはいけないと考え指導を始めました。 身体能力が身につくのは高校生では遅いと、野洲市において小中学生を育てるクラブを作りそこから選手を育て、そして高校の指導者として、選手権につれてきたといいます。 また、ガイドラインに沿ったサッカーではなく、1人1人が考え、判断し、責任を持ってプレーするサッカーをモットーにチームを作ってきたことも特徴的です。 そのため、全体での練習時間は短く、行っている練習も筋トレなどではなく全部ボールを使った練習をしてきたそうです。 そしてその他の時間は各自が目標を定めて毎日練習してきたことが新鮮だと思います。 自分で考えて判断する。 それはピッチの上だけではなく、自分自身をコントロールすることでとても大切なことですね。 規律を重んじる指導と、自由に考え判断させるという教育にはそれぞれメリット、デメリットがあります。 特にサッカーという枠組みの中での自由な判断はできますが、高校生というまだ自分をつかめていない年代に自由を与えすぎても逆効果を与えてしまうことがあります。 ただ、野洲のサッカーを見ていて、自分で考え判断し、責任を持って行動に移すという方法は、今後の教育のあり方として大きなヒントになると感じました。 私自身が、目標もなくただ勉強しなさい、大学には行かなくてはならないという社会一般のガイドラインに流され勉強していた状態から、自分で自分を考えるようになったときは高校2年生から3年生の移り目で、17歳のときでした。 今となって振り返りますと、もっと早く自分で判断し、目標を立て行動するという「自分の生き方を自分で決める」ことに気づくことが出きていれば、私の人生は大きく変わっていたと思います。私の周りでは、優秀な人ほどそれが早くできているものですし、うまく人生を歩んでいると感じます。 現在の教育の方針で、ゆとり教育という名のもとに時間数を削り、ただ子どもたちに時間を与えてあげるだけではなく、どのように自分が人生を歩んでいくのか、そのためには自分が何をすべきなのか、そのような将来の展望や判断力を持たせてあげることが、人生の中では様々な分野で役になってくると思います。 イスラエルの哲学者、ヨゼフ・ラスの考え方にこのようなものがあります。 自分で進路(大学や就職)を決めて進むことや、誰と結婚するかを決断するということは自律した生き方だという考えであり、親や教師の影響を受けることは他律的な生き方をさせられているというものです。 例を挙げるとごく当たり前なことに聞こえてきますが、「自分の生き方を自分で決めることは、幸福になるために欠かせない条件だ」という言葉には考えさせられます。 自分で決断するときは、自分の責任で進めるのでリスクやその結果を常に考えて決断します。そのための努力もしますが、他律的な生き方の中では、常に責任を大人に持たせてしまい本人は見守られてしまい、判断力は弱くなります。 自分で判断して先に進む。先に進むためにはどうすればいいのかを本人が考える。 これらを繰り返すことで短期の目標だけではなく、人生のような長期的な目標も立てられるようになる。 これが、これからの教育において大切となってくることではないでしょうか。
by naomedia
| 2006-01-15 02:03
| スポーツ
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