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100円ショップはどこからきたの?
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日本とアメリカの文化の差をテーマに3回にわたって
書いてきましたが、今回が最後です。
今回は100円ショップについて書きたいと思います。

100円ショップが日本で普及し始めたのはここ10年の話です。
それ以前は、スーパー等のイベントとして不定期に開催されていたものでした。
その頃は、商品といえばプラスチックの箱や洗濯バサミのように商品も限られており、
プラスチックの製品が多くを占めていた気がします。
でも店舗として独立した後は、
生活に必要な小物のほとんど欲しいものが揃ってしまうくらい商品が充実していますね。

このような変遷を見てきたので、
私は、100円ショップは日本独自のものと思ってきたのですが
アメリカにも同じものがありました。
もちろん向こうは単位がドルなので、1ドルや99セントショップというようになります。
売っているものは食器、お菓子、雑貨、日用品と何でも揃い、
商品自体は違いますが内容は日本のダイソーなどとほぼ一緒です。
日本とほぼ同じ様子ですが、お店での売れ筋商品を聞いてみると、
1ドルワインらしく、入荷するとすぐに売れてしまいいつも品切れ状態のようです。
酒類がおいてあるところが日本との法律の違いでしょうね。
日本では酒税も関係し、100円では置けないのでしょう。


e0011904_1455581.jpgそれでは、100円ショップとはいったい
どこで生まれたのでしょう。

アメリカでは、「日本にはこんなお店あるの?」と何人かに質問され、僕が日本で生まれたものと信じていたように、現地の人はアメリカで生まれたものだと思っているようです。

今回このコラムを書くにあたり、いろいろ100円ショップのルーツを調べてみたのですが、決定的なものは見つかりませんでした。
(僕が行ったお店の歴史を読んで見ると1986年に1ドルショップの1号店を開店と書いてあり、日本よりも前であることがわかります。しかし、いくつも同じような会社があるのでルーツは定かではありません。)

ただこの形式のお店は、日本やアメリカに限らず、
ヨーロッパでは1ユーロショップ、
中国では一元店と世界に展開していることがわかりました。
世界中、文化は違っても、すべての商品が手軽な額で買えるわくわく感と、
生活だけではなく、趣味においても遊び心も満たせてくれている楽しさは共通のようですね。
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by naomedia | 2006-01-25 15:03 | アメリカ
日本人はショッピング好き?
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前回から3回の予定で「日本とアメリカの文化の差」をテーマですすめてきておりますが、
今回の題材は「ショッピング」です。
前回の記事はこちらから読むことができます。

よくショッピングが好きな日本人ということを言われますが、
正直、私自身はその部類には入らないと思っていました。
例えば、私は海外に行っても簡単なお土産以外は買いませんし、
ディズニーランドの帰りにも、「おみやげ買わなきゃ!」と張り切ることもありません。
ただそんな私でもアメリカ人の視点で見てみると、やはりショッピングが好きな日本人というグループに属していたようです。

そのことに気づかされたのは、アメリカ滞在中の会話です。
ある日「普段の週末は、日本ではどんなことをして遊んでいるの?」という質問をされました。

大半の週末は、制作活動などで潰れてしまう私ですが、しいて言うなら
「友達と映画を観にいったり、都心にでて美術館や、デザイン関係のイベントに参加して、
帰りは街をブラブラして帰るよ」と答えました。

何気ない答えでしたが、この自分の発言の中に日本人の要素がたっぷりたまっていることに、彼から気づかされました。
皆さんはこの答え方のどこに日本人の要素があると思いますか?
見方によっては、美術に興味を持っているところかもしれません。
でも、彼らが注目したのはそこではなく、
「街をブラブラして何するの?」というものでした。

僕にしてみれば、新宿や青山を歩いて、何か気に入ったものでもあれば買って帰ろうかなというくらいの気持ちで“ブラブラ”なのですが、この行動をうまく説明できる言葉が見つからないのです。
必ずこれを買いにいくんだと思って歩いているわけではないですし、
買う気がないわけでもない。
この行動は、都心に限らず、週末になんとなく特に欲しいものはないけれど、
ホームセンターにでも行ってみようかなという気持ちと同じです。

「まだ、帰るには早いから、ちょっとどこかお店でもよって帰ろうかな?」や
「気分転換にちょっと近くのホームセンターに行って買い物でも・・・。」という
このような考え方が日本人なんですね。
日本人は買い物という行動を楽しんでいて、1つのエンターテイメントにしてるのですよ。
それは、海外や旅行だけと僕は思っていましたが、普段の生活から買い物はスーパーにでも夕飯の材料を買いにいくというような形態以外は楽しみにしているんですね。


次にされた質問は、1人や仲のいい友達とそんな感じで楽しんでいるのなら、
「日本の大学生はデートでどんなところにいくの?」と聞かれました。
これは、千差万別あってわからないと答えたのですが、
そのときは丁度、夏だったので、
この時期だったら車持ってる学生は、海に行ったりするだろうし、そうでなければディズニーランドは近いから結構みんないってると思うよと答えました。
「でもオーソドックスなパターンでは、映画とか何かのイベントで出かけて、
おいしいものでも食べて、その近くをブラブラして帰ってくるのが多いんじゃないかな。」
と答えると、また「ブラブラしている」という言葉が入っており、やっぱりデートでもショッピングしてるのねと笑われてしまいました。
アメリカでの考え方では、ショッピングは、日本のスーパーでの買い物のようにしぶしぶいくという印象がつよいですから、デートでショッピングするなんて考えられないですよね。
映画やドラマを見ていても、デートでショッピングをしているシーンなんて見たことありません。もしあるとするならば、女の子同士がモールなどにいって、「この服どうかな」と相談しあっているようなシーンばかりです。


これらの考え方の差は、国土の広さの差から来ているではないかと僕は感じています。
日本の都市部では、いろいろなものが歩ける範囲にぎゅっと詰まっています。
そのため、目的地を決めて移動しているときに、何かしら探しながら遊ぶようなところが私たち日本人にはあるんです。
いい例としてデパ地下がありますね。
なにか目玉商品(都心では映画・イベント→デパ地下ではマグロ・駅弁)があって足を運び、それでそのエリアに行けばきっと何か他にも何かあるかなと思うといろいろ楽しいものに出会えるというものです。

でも、アメリカでは移動はすべて車なのでこうはいかないんですね。
服は服のお店ですし、食品はスーパーと区切られてしまいます。
デパートと似たものとしてモールがありますが、もしそのモールで気に入らないものがあったとしても、近くにお店があまりないので、他のお店にいってみようという
考えにもなってこないわけです。
そんな環境で生活していると、自分にあった商品を探す楽しみよりも
必要だから買いにいくというスタンスになってくるのではないでしょうか。
すると、便利だから使い勝手がいいからというものがデザインなど他の要素よりも
重視され、社会全体的に合理主義的な考え方が広まっているように感じます。
その逆もありますね。便利で使い勝手がいいものだけが広い国土のアメリカに普及できるのかもしれません。


ここまで、ショッピングに注目して話してきましたが、
ショッピングに限らず、日本の生活の話をしていて
よく言われたこととして印象的な言葉があるのです。それは
「君は、日本でニューヨーカーみたいな生活をしているね」
というものです。これは何人もの人に言われました。
それは、普段から電車をよく利用して、地下鉄も自由自在に乗っている。
そして欲しい商品は何件も回ってお店を探しているし、
ミュージカルの話になれば、僕は日本ですでに観ているし、
アメリカのロックミュージシャンだってやってくる。

僕の生活圏は、都心から電車で1時間と
日本でいえば決して都会といえない場所なので、この言葉には驚きましたが、
世界的にみれば、これだけ交通機関が発達し、店舗や
エンターテイメントが集中しているのはとても特異な環境なのだと思えてきました。
そんな環境で生活し、慣れていると、
人はただ商品を手に入れるだけで満足するのではなく、
こだわりを持って商品を選ぶようになってくのだと思います。
そんな背景が日本人のショッピングスタイルを生んできたのではないでしょうか。
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by naomedia | 2006-01-21 20:29 | アメリカ
フォーマルな日本語とカジュアルな英語
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前回は教育をテーマに取り上げましたが、今回から
「日本とアメリカの文化の差」をテーマに3回の連載をしてみたいと思います。

僕がアメリカに滞在中、アメリカ人の知人が週末、僕を遊園地に連れて行ってくれました。
その帰りの車中で、その日一緒に遊んだ他のメンバーの話になりました。

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“面倒”と片付けてしまいましたが、その大本には若い人が敬語があると思います。
日本人はいつも敬語を話さなきゃいけないために
楽しい気持ちを共有したくても、どうしても心が開けないというところが
日本語には存在していると思います。

この感情の共有のいい例として、僕とその40代の知人との遊園地での会話があります。
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この会話だけ見ると20歳も歳が離れているとは思えないですよね。
こういうことができないため、日本人は同じ位の年頃の人と出かけたり、
遊園地に行くにしても40代にもなれば自分の家族と行くんだと思います。
他の家族を誘っていくこともとてもいいことなんですが、
二つの家族の間はやはり仲が良くないと、
敬語や気遣いが存在してきて、うっとうしくなってしまうのでしょうね。


このような気遣いがない分、英語の特徴として、
仲良くなるまでの時間がすごく短いと感じました。
日本語ではまず初対面のときに、必ず敬語から入ります。
このことによってまずお互いの間に垣根を作ってしまうのです。
そして、その垣根を取り払っていくのに時間がかかるんですよ。
先ほど例に挙げた、遊園地での会話だけを見ると、普段から仲のいい友人に見えますが、会話したのはほとんどこの日が初めてと言っていい関係です。
この人間関係を体験すると、英語はすごくカジュアルで便利な言葉で、うらやましいな~と感じてしまいます。


では、どうしてこんなにお互いの言語に差が生まれたのかと思い、ルーツを探ってみると
宗教に影響があるのではないかと感じるようになりました。

日本の文化は、約2千年前に中国で生まれ、飛鳥時代に日本に入ってきた
儒教に大きな影響を受けてきました。
儒教では年上の人(特に男性)を敬う「祖先崇拝」とことが大切とされてきました。
そして、この儒教には他人を敬う気持ちとして
「仁」というものが存在するのです。
またもう1つ、自分の心の中で思っている「仁」を外に表す行為として
「礼」というものがあるのです。この「礼」が現代の社会でも敬語として残っているのです。
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逆に英語はキリスト教など一神教の環境で作られてきました。
一神教においては、人の上に人は作らずという考えで、
神以外はすべて人間という考えに影響を受けてきたため、
敬語がない言語になったと考えています。(これはあくまで僕の意見です)


このように長年にわたって作り出されてきた言葉なので、使っている私たちは何も違和感持っていませんが、
アメリカ人の知人は敬語によって人の名前が変化することをすごく驚いていました。
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例えば上の図にもありますが、最初は必ず「○○さん」から入り、
年上だとわかるとそのまま「○○さん」を使い、同じ年とわかると「○○君」、女性なら「○○さん」を使う。そして年下だとわかるといつの間にか呼び捨てになる。
そして1番変化していくのが同じ年の人で、
仲良くなると苗字を呼ぶのではなく名前を呼ぶようになったり、ニックネームに変わっていったりするんです。
ここまではアメリカの知人にも理解してもらえたのですが
この先の説明がとても難しかったのです。

過ごす時間によって人の名前は変化しますが、
いくら同い年で毎日顔をあわせて会話していても、
ただのクラスメイトというように、すごく仲が良いという関係が成り立たない人には、
「君」や「さん」を使い続けますし、
職場では年上、年下を意識せずに、基本的に苗字+「さん」を使うことが
好ましいとされていたりと、これらのルールはとても曖昧なんです。
こんな曖昧なルールの中で、私たちは常に相手に気を使いながら生活をしているんだなと
アメリカ滞在中に気づかされました。

このように考えてくると、
海外ではみんなが自由に意見を言い合うのに
日本人はあまりそういうことをしないということも見えてきますね。
英語にはいつでも対等に話し合えるフィールドが、既に言語の上できているんです。
そのため、欧米のグループワークの手法をそのまま日本に持ってきても、
どこかぎこちなくなってしまうことがありますね。
ただ日本人が意見をあまり言い合わない、自分をアピールしないという理由を掘り下げていくと、実は儒教の縦関係の構造だけでなく、老荘思想の影響が強いなど、もっと他の要素が関係してきてしまうので今回は削りたいと思います。


このように日本語はすごくフォーマルな言語で使いにくさがありますが、
その曖昧さから、いつも相手に気を使うような日本人の人格や独特の繊細さ、
そして文化が生まれてきたと思います。

スイスのソシュールという言語学者の考えで、
「言葉とは社会的な約束によって決まっているというものがあるのですが、そのように社会(人間)が生みだした言葉を長年使ってくることによって、
今度は人の方が影響を受け人間性自体が変わっているのではないかと僕は考えています。

今回は「言葉」がテーマで難しくなってしまいましたが、次回はもっと気楽にショッピングの話を書きたいと思います。
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by naomedia | 2006-01-18 22:41 | アメリカ
高校サッカーから気づかされたこれからの教育
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私はサッカーが好きなので、毎年この時期になると高校サッカー選手権を見てきたのですが、今大会の決勝戦ではいろいろ考えさせられることがありました。

対戦したのは滋賀県の野洲高校と鹿児島県の鹿児島実業高校。鹿実は皆さんご存知のとおり野球も強く、サッカーでも毎回優勝候補に名前が挙がる常連校です。それに対し、野洲高校は出場二回目の学校です。

この2つのチームが出場記録のみならず、とても対照的なチームで、
1人1人の個人技とすばやい連携プレーで華麗なサッカーを見せる野洲高校と、
精神力と体力で育てられてきたような、規律を守った戦術サッカーの鹿実という
印象をうけます。
この対決は、決勝戦が始まる前から楽しみでした。
まるで発想力と個人技で崩されていく南米サッカーと
守備に重点を置いた規律重視のヨーロッパサッカーの対決という構図のようでした。

結局この試合は野洲高校が延長戦の末、1点差で勝ったのですが、
試合結果以上に、野洲のプレーが今までの高校サッカーでは見られなかったすばらしいものだったと思います。試合後は、これからの高校サッカーを変える試合になったと持ち上げられていますが、決してお世辞ではないと感じます。
私は今回の鹿実が決して悪いサッカーはしていないと考えていますし、それであるからこそ決勝戦で力は均衡したと考えています。そして決勝戦までの勝ちあがってきた指導の方法に問題があったとは思いません。ただ、ひとつ大きく違う部分があったと思うのでそこについてお話したいと思います。


これまでの高校サッカーでは、指導者がクラブにおける規約やルールを作り上げ、生徒はその規約に従い、監督の下でサッカーを作りあげてきました。
そのため、生徒はそのガイドラインにちゃんとついていき、ピッチ上で戦術が実現できるようにに筋トレや精神力を磨く訓練に時間を割いてきました。サッカーという競技をしながらも、体力で相手を上回り、相手がついてこられない状況を作り出そうというパワープレーが存在してきたのです。
これらのことがごく普通にこれまでの高校サッカーを支えてきたので、試合を見ていて感じる各校のガイドラインや体力勝負が高校サッカーには必要なものだと多くの人が思っていました。これらには短期で連戦が続く大会の形式からも有利と思われていました。

しかし、今回の野洲のしていたサッカーは全く異質なものでした。
高い位置にからの全体を俯瞰できる位置の視点で見ている私たちでも、次に繰り出す彼らの自由なプレーにはついていけず、度肝を抜かれました。
またそれらのサッカーを選手たちがのびのびと楽しそうにプレーしていて見ている側の心をつかみました。それが、反響の大きさだと思います。

それでは、なぜ出場2回目のチームがそんなプレーをし、優勝できたのでしょか。
しかも野洲は県立高校です。予算も施設も限られてきます。
そんな環境でありながら、あのようなプレーをすることができたのは、やはり指導する側の方針が良かったからだと思います。
この野洲高校の指導者は、サッカーの選手としての活動はないそうです。もともとレスリングの選手で大学4年のときにドイツへ留学し、そこでサッカーをよく見ているうちに興味を持ったのが始まりなのです。
そして、向こうでサッカーをみているうちに、自然と試合を見る目がこえ、
帰国後、日本の高校サッカーを見たときに、サッカーに見えなかったとおっしゃっております。おそらくそれだけ日本ではガイドラインに沿った、型にはまったサッカーをしていたのでしょう。
そこで、今のように組織力でサッカーをしようとしている日本において、
まずは個人の能力を上げなくてはいけないと考え指導を始めました。
身体能力が身につくのは高校生では遅いと、野洲市において小中学生を育てるクラブを作りそこから選手を育て、そして高校の指導者として、選手権につれてきたといいます。

また、ガイドラインに沿ったサッカーではなく、1人1人が考え、判断し、責任を持ってプレーするサッカーをモットーにチームを作ってきたことも特徴的です。
そのため、全体での練習時間は短く、行っている練習も筋トレなどではなく全部ボールを使った練習をしてきたそうです。
そしてその他の時間は各自が目標を定めて毎日練習してきたことが新鮮だと思います。
自分で考えて判断する。
それはピッチの上だけではなく、自分自身をコントロールすることでとても大切なことですね。


規律を重んじる指導と、自由に考え判断させるという教育にはそれぞれメリット、デメリットがあります。
特にサッカーという枠組みの中での自由な判断はできますが、高校生というまだ自分をつかめていない年代に自由を与えすぎても逆効果を与えてしまうことがあります。
ただ、野洲のサッカーを見ていて、自分で考え判断し、責任を持って行動に移すという方法は、今後の教育のあり方として大きなヒントになると感じました。
私自身が、目標もなくただ勉強しなさい、大学には行かなくてはならないという社会一般のガイドラインに流され勉強していた状態から、自分で自分を考えるようになったときは高校2年生から3年生の移り目で、17歳のときでした。
今となって振り返りますと、もっと早く自分で判断し、目標を立て行動するという「自分の生き方を自分で決める」ことに気づくことが出きていれば、私の人生は大きく変わっていたと思います。私の周りでは、優秀な人ほどそれが早くできているものですし、うまく人生を歩んでいると感じます。

現在の教育の方針で、ゆとり教育という名のもとに時間数を削り、ただ子どもたちに時間を与えてあげるだけではなく、どのように自分が人生を歩んでいくのか、そのためには自分が何をすべきなのか、そのような将来の展望や判断力を持たせてあげることが、人生の中では様々な分野で役になってくると思います。

イスラエルの哲学者、ヨゼフ・ラスの考え方にこのようなものがあります。
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これは、ヨゼフ・ラスの考える個人的自律という考え方ですが、この考えを基に考えると
自分で進路(大学や就職)を決めて進むことや、誰と結婚するかを決断するということは自律した生き方だという考えであり、親や教師の影響を受けることは他律的な生き方をさせられているというものです。
例を挙げるとごく当たり前なことに聞こえてきますが、「自分の生き方を自分で決めることは、幸福になるために欠かせない条件だ」という言葉には考えさせられます。
自分で決断するときは、自分の責任で進めるのでリスクやその結果を常に考えて決断します。そのための努力もしますが、他律的な生き方の中では、常に責任を大人に持たせてしまい本人は見守られてしまい、判断力は弱くなります。

自分で判断して先に進む。先に進むためにはどうすればいいのかを本人が考える。
これらを繰り返すことで短期の目標だけではなく、人生のような長期的な目標も立てられるようになる。
これが、これからの教育において大切となってくることではないでしょうか。
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by naomedia | 2006-01-15 02:03 | スポーツ
2006 -スポーツイベントの特色-
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2006年が始まりましたね。
今年は、
2月にトリノオリンピック
6月にサッカーワールドカップ
と、大きなスポーツイベントが続きます。
スポーツ好きの僕にとっては、今から楽しみな1年です。

冬季オリンピックは、夏季オリンピックに比べ、種目数も
参加する国の数もずっと少なくなってしまいますが
そこは、ウィンタースポーツの盛んな日本だけあって、
興奮や感動は引けをとりませんね。

日本にいると、ウィンタースポーツが盛んな国という印象は
あまり受けませんが、世界的にみればかなり盛んだと思います。
それは、スキー場の数にも表れていると思いますし、
また、アルペンスキー、スノーボード、スケートにしても、
世界的な大会が開催しているところからも盛んな地域だといえるのではないでしょうか。

今回の大会では、女子フィギュアスケートが大きく取上げられていますが、
僕が毎回冬季オリンピックで楽しみにしている競技は、
アイスホッケー、ボブスレー、リュージュ、カ-リングなどの
あまり普段は見ることのできない競技です。
これらの競技は日本はあまり強くないかもしれませんが、
ルールも単純明快で、初めて見てもすぐに楽しむことができます。
日本では4年に1度しかスポットライトが当たらないのがとても残念なのですが、
そうであるがゆえに、見たくなってしまいます。


そして話は変わり、
6月にはサッカーワールドカップが開催されます。
これまでこのblogではあえて取上げてきませんでしたが、僕は
無類のサッカー好きです。
正直言って、サッカーが、僕のスケジュールを左右しているくらいです。
なぜなら、手帳を新しく買ったときに最初に埋まるのはひいきにしているチームの
対戦スケジュールですから。
スタジアムに見に行ける試合にはできる限り、足を運んで応援しているようにしています。
そんな自分の趣味を他の人と、一緒に思う存分楽しめるのが、ワールドカップの期間です。
この興奮をより長く楽しめるためにも、日本代表にはぜひがんばって欲しいものですね。


このように2つの大きなスポーツのイベントがある年ですが、
それぞれのイベントには特色があると思います。
それは、”感動”と”興奮”というキーワードです。
よくオリンピックなどのイベントが終わりに近づくと、
テレビ番組等で、「興奮と感動をありがとう」という映像が流れます。
もちろん、どのスポーツにも興奮と感動があるからこそ面白いのですが、
この2つのイベントを大きく分けると、以下のようなイメージに分けられると僕は思います。
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冬季オリンピックは様々な競技で、人間が出せる以上の速度が出るので
競技時間が短く、出てきた結果に心揺さぶられるので感動が多い特徴があると思います。
またワールドカップでは、サッカー自体が心理的な影響が大きいスポーツであり
僅差のまま緊張感が長時間続くので、興奮が生まれてくるのだと思います。

興奮と感動。そんな2つの特色を楽しめる1年がいまから楽しみです。
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by naomedia | 2006-01-05 19:34 | スポーツ
あけましておめでとうございます
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by naomedia | 2006-01-01 18:00